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一緒に考え、本人が「こうしていきたい!」と 発信できるような遠回しの優しさもある【レビュー記事】

「相手の要求を叶える人は、やさしい」という幻想 | Plus-handicap プラス・ハンディキャップ

 

綜合キャリアトラストの糸藤です。

今回、こちらの文章を読ませていただき、大変共感する内容でした。

以前、介護の仕事をしていたころ、ご利用者の方々からのご依頼やご要望をよくお聞きしていたことを思い出しました。

 

入職当初、ご利用者の方々から「〇〇して」や「〇〇取って」など、
まるでご利用者の手足のように動いていたことを覚えています。

ある時、その動きが、ご利用者の可動域を狭め、より体が動けなくなることにつながっていることが研修などで学ばせていただき、
少しでも寝たきりにならないための介護・介助へと取り組みが変わっていきました。

「人が人らしく生きていて楽しかったと思えるような生涯を終えられるためには、どのようにしたらよいのか」と考えたとき、
自分の腕で箸を使い食事をすること、
自分の足で歩いてトイレにいくこと、
自分の体を自分で洗うことなど、
自らの力で動くことが大切であると考え方を切り替え取り組みました。

良い結果が出たときは、可動域が広がり、
自ら歩いてトイレに行くことや、
箸やスプーンを自ら持って食べる意欲が出てきた方もいらっしゃいました。

あまり良い結果にならなかったときは、食事を見つめた状態があるなどありましたが、
介護者・介助者・支援者が行うのではなく、自ら動きたくなるような言葉かけや誘導が必要になるときもあることを学びました。

 

現在では、障害のある方々を支援する中で、相談や質問・不安を口にされたときに、
すぐこうすると良いとアドバイスをしても、自分事としてとらえて動く方は少ないです。

一緒に考え、本人さんから“こうしていきたい!”と発信することで、自分事として行動できる方の方が多いように感じます。

 

私たちの仕事はブラインドマラソンで例えると伴走者です。

ご利用者の方々が安心して就職準備・活動ができるように就職に必要な情報を提供し、
焦って息切れをしないようご本人さんのペースを把握したうえでコースを把握し、
これから起こるかもしれないことに備え、タイミングを見て言葉かけなどを行っています。

全てのことを支援者側が道を整えご本人を誘導するのではなく、行き方・歩き方・避け方などを細かく伝えることも、
ご本人の経験や成長につながると考えて支援をさせていただいております。

 

社会や会社に入れば、伴走者はほとんど付くことはありません。
その中で、自らが立ち、仕事をするためには、今何が必要かを自分事として考えていただき、
私たちも共に考えて一緒に行動ができると良いと思います。

自分にとっての優しさがうれしいと感じることだけでなく、
自分の成長に必要な厳しい環境も今後を乗り越えていくための
遠回しの優しさのこともあることを理解した上でお互い関わっていく必要があると考えます。

 


 

以下記事本文より引用
*プラスハンディキャップ様より掲載のご了承をいただいております。

「相手の要求を叶える人は、やさしい」という幻想 | Plus-handicap プラス・ハンディキャップ

 

 

泣いている人や、ため息をついている人、不機嫌そうな人を見たら「何かあったの?」と声をかけるのがやさしさだと思っていました。

困っている人を見ると「なんとかしなきゃ!」という居心地の悪さを感じ、目が合えば、自分に助けを求められている気がして。わたしはそんなピリピリした空気が嫌いで、無言の圧力に耐えられませんでした。

「相手の要求に応えることが、いいとは限らない」と知ったのは福祉の仕事を始めてからでした。

わたしは今年で障害福祉の仕事を始めて8年目。いつの間にかそこそこ中堅になってしまいました。

福祉の仕事をしていると、本当にたくさんの人に会います。仕事を始めるまでは、要求の内容、表現の仕方、要求を通そうとするときの駆け引きがこんなにも人によってちがうとは知りませんでした。

泣く、黙る、自分のやるべきことを放棄する、笑顔でごまかす、物を投げる、自分を殴る、他の人を引っ掻く、暴れる…バリエーションが豊か。

きっと欲求不満状態に耐えられなくて苦しいのだろう、本人にもどうしようもないのだ、力になってあげたい…。本人から訴えがあるたびに、言うことを聞いていました。

本人の訴えを通すと、一時的にみんな楽になります。泣いている人は泣き止むし、暴力をふるうこともなければ、恨まれることもありません。

支援者だって暴れられるよりは、言うことを聞く方が楽。自分が少し我慢をすれば、場が丸く収まると思っていました。

しかし、後になって「自分は無責任なことをしていたんだ」と気づきました。

わたしは相手の要求を断ったときに騒がれたり、恨まれたりするのが嫌だっただけで、そんなのは、問題の先送りにしかなりません。

そうやって、学校や家庭内でワガママを通し続けた挙句、受け入れ先のなくなってしまった人に会ったこともあります。他の利用者の人だって大きな泣き声を聞くのは不快だし、機嫌が悪くなると暴力をふるかもしれない人の近くにいるのはビクビクします。そういう人を積極的に受け入れたがる場所は少ないので、将来の選択肢が狭くなっていってしまうのです。

本人の希望を聞き入れればいい、というほど単純なものでもなく、また、支援者にもできないことはあります。時には、うちでできる範囲はここまで、と譲らないことも大切です。

個人の行き過ぎた要求を叶えてしまうと、集団のバランスが崩壊してしまいます。とある一人に時間や労力を使っている間、他の人は放って置かれます。

ルールを守った人だけが損をする世界。ルールはわたしたちを縛るだけじゃなくて、秩序を守ってくれているのです。何度も失敗をして、ようやくそのことに気づかされました。

他の人の力を借りなくても自力で生きていける人たちなら、最初から福祉サービスはいりません。福祉サービスはそこから零れ落ちてしまう人たちが使うものです。

だから、他の場所と比べたら社会のルールを個人に強制することは少なく、場所にもよりますが、個人の事情に合わせることも多いものです。

ただ、人が集まればそこは小さな社会。ルールの無い、100%個人のための場所なんてどこにもないのです。

今も、迷いながら働いています。

「この人なら、大丈夫だろう」と見込んでグッと踏み込んで失敗して関係性を壊してしまったこともあれば、逆に「ちょっとこれはこの子にはむずかしいんじゃないかな…」と代わりにやってあげているうちに、舐められてしまうこともあります。勘が働くことは増えたけれど、それだって絶対ではありません。

結果を見てからあーだこーだ言うのは簡単ですが、現場はわからないうちに判断して行動していくしかないのです。その場で喜んでくれても長期的に見て本人のためになるとは限らないし、嫌がれても向き合うべきときもあります。本人の意思を無視していいと言うわけでもありませんが、すべてを受け入れることもできません。

何を選んでも、どこかで犠牲は出てしまいます。「やさしい人」なんて幻想。本当のやさしさは、望んでいるものとはちがうのかもしれません。