お役立ちコラム
「内定者研修を受けて、私は社会を疑った。」を読んで、私が就職した頃を振り返ってみました【レビュー記事】
綜合キャリアトラストの上松宏一です。
思わず自身の就職した頃の事を思い出しました。
就職活動をして社会人になった時には、バブルが弾けた直後でした。世間はまだまだその余韻が残っており、街にはまだバブルに浮かれた雰囲気が残っていました。
当時「24時間戦えますか」が流行語大賞に選ばれたりもしていましたので、身を削って仕事をしなければいけないのだと考えられていた時代です。
就職活動では、説明会に行くと、各企業から交通費がもらえて、食事が出されるのが通常でした。
朝、家を出てからいくつかの会社説明会に参加して帰宅すると、頂いた「交通費」でお財布の中のお金が増えているというのはいつもの事でした。
企業からの内定も次から次へともらえ、内定が決まると国内のリゾートホテルに呼ばれて拘束されるという事がいくつかありました。
東京ディズニーリゾートのホテルや、伊勢志摩のリゾートホテルでの泊りでの食事会、グアムへの海外旅行 (さすがに海外旅行には参加しませんでした・・・)
「是非当社に」と、とにかく人事の方々に食い下がられてしまい、内定を断るのが本当に大変だった記憶が残っています。
そんな時代背景の中で、就職活動をして社会人となりました。
入社した会社は、当時全社員で約7万人いる古い体質の会社で、上下関係もまずまず厳しい感じでした。
先輩社員の中には、ちょっと意地悪な人もいて、いつも怒ってばかりの人でしたので、その時には「もっと優しく教えてくれてもいいじゃん!」といつも心の中で思っていました。
今考えるとおこられるような事ばかりしていたのでしょうね。
確かに、入社からしばらくは、今考えると尋常じゃないと思うようなミスをしていました。
先輩に反発もしましたし、落ち込んだりもしましたが、当時は同期のつながりが強く、週末になると同期と会社の愚痴をいいながら、朝まで飲み歩いて、ストレスを発散していました。
当時は「社会を疑う」と言うよりは、「社会に飲み込まれていた」という状況だったと思います。
あれから30年がたち、自身が先輩から受けた対応を踏まえ、自分が後輩に接する時には、否定をせず話を聞く事を念頭において、これまで接するようにしてきました。
最後に今の自分が新入社員の自分に言いたい事は、「新入社員の時には、ミスを恐れずにいろんな事に挑戦した方がいい。様々な経験を積むことで、必ず社会人として成長できるようになる」と。
自分中心でしかものごとを考えられなかった新入社員の頃には、考えも及ばなかった多くの経験をすることで、周囲の協力もあり今こうして社会人として仕事ができています。
経験と時間がどれほど、大切な事ものなのかを、身をもって感じている今日この頃です。
内定者研修を受けて、私は社会を疑った。|プラス・ハンディキャップ
以下記事本文より引用
*プラスハンディキャップ様より掲載のご了承をいただいております。
先日、内定者研修を受けてきました。そして、初めて邂逅したのです。例のあの人、マナー講師。
感じ入ることはたくさんたくさんあったのですが、私が社会でやっていけるか不安になりましたって話を今回はしてみようかなと思います。
社会人の心得とか、働くときの心がけとかについて聞いていたときだったと思います。
「言われたことはしっかりメモを取って、その場で質問をする。そして、1回で覚えることが大切です。」
「あなた方の先輩は優しいから、何度同じことを聞いても優しく嫌がらずに答えてくれると思います。ただ、心の中では…×(手でバッテンポーズ)」
私は、この社会で働けるのかとても不安になりました。真面目な顔でメモを取りながら、慌てた慌てた。なんなら割と悲しくなった。
分からんことがあっても質問するなってことなのか?みんなニコニコして教えてくれながら裏でそんな事を考えてるんかな。それは人事の皆さん共通の思想ってことで大丈夫なのかしら、後ろに居る皆さん…。研修の記憶はその他にはあんまりありません。
もちろん、限度は絶対あると思うんですよ。メモ取らずに、脳死でとりあえず聞いとけ的なスタンスとか、上の人々の言うことに従っておけば構わないよねという感覚はそりゃあバッテンでしょう。ただ、研修でこれを言われたあと、先輩に同じ質問は何度もしてはいけない…とリードしてしまったら、いったい果たしてどうすればいいんでしょうか。
私は、分からないことは何度も質問していいよって言う人と一緒に働きたいし、何回も質問してね、抱え込む前に質問してねって働いてる人に言いたい(誰目線だ)。
特に、抱え込みがちで自分一人で処理してしまう系の人々ばかり周囲にいるので。
自己肯定感低い→人に頼れない→ぎりぎりまで頑張ってみる→どうにもならないフェーズに入る→他人に迷惑を掛ける→自分はダメだモードに入る→自己肯定感が更に下がる⤵
いえーい、負のループがんぎまり。
生きづらさって人に頼れないという観点もあると思っています。以前お世話になっていた団体では「自立は依存先を増やすこと」と仰っていました。この言葉がすごく心に残っています。
依存というのは、誰かを頼れるということで、頼るにも技術がいる。頼り先がないことはもちろん苦しいことだし、それが1人だけだと自分も相手も苦しい(=安直な言葉を使うと共依存関係に陥ってしまう可能性もある)。依存先がたくさんあることで、それぞれの悩みや状態に合わせて依存先を変えられ、それぞれの人にかかる負担感も減る。
そんな関係を作るためには、日ごろからの”助けるよ⇔助けてね”って言い合えるようにしていることは、大切なのではないかと思う。私たちは、無条件で一方的な「助けてよ」なんて言えない。そう、言えない。自分でどうにかしようと頑張る。そして、抱え込む。そんな時に普段からの気にかけの目があるよと言ってもらえてるとどんなにかラクなんだろう。
この考えを職場に当てはめるのは甘いんだろうか。まあ、そんな私だって、会社の人、今でいうバイトの人と仲良しこよしの社会人ライフを送りたいと思っているわけじゃないけれど、働きやすい環境を作れるなら、作る努力をしたい。少なくとも1日の3分の1をともにするんだから、少しでもそこで息しやすくなりたい。
私が社会でやってけるのかなって思ったのは、頼ったり頼られたりの関係がお金をもらって働くことになると疎まれるのかなと感じて、苦しかったから。
お金が介在したからといって、苦手なことをいきなり得意になんてなれない。だったら、得意なことと苦手なことを持ち寄って分け合ったほうが、いくぶん生産的な気がしませんか。幸せ増えるかは知らんけど、不幸せは減るんじゃないかな。息しやすくならないかな。
自分の仕事に責任を持つとか、社会の厳しさとかの意識が薄いから、そんなところにいちいち引っかかってるのかもしれない。こんなことを書くと、どうせまた「社会は甘くないぞ」とか「若いね」とかって笑われることも知ってる。その時の冷笑する目も。
自分もいつか誰かに社会の厳しさを語ってしまうのかな。その時の”社会”はだれが作った”社会”のことなんだろうか。
プラス・ハンディキャップ